皇室、幕府との厚い信頼を結んできた妙福寺の輝かしき歴史と伝統。

皇室、幕府との厚い信頼を結んできた妙福寺の
輝かしき歴史と伝統。

皇室、幕府との厚い信頼を結んできた
妙福寺の輝かしき歴史と伝統。

 海上山 妙福寺は正和3年(1314年)4月26日、人皇95代 花園天皇の時代に、 日蓮聖人の直弟子 中老僧日高聖人を開基とし、大本山中山法華経寺三世 浄行院日祐聖人によって開創された名刹です。
当時は銚子市の隣り、匝瑳市八日市場の入山崎にあり、「槃若寺」と称し、真言宗に属していましたが、 時の住僧 円学は日祐聖人の偉大さにふれ、ついに心服し、寺も僧もその宗旨を改めました。
寺号を海上山 妙福寺とし、住僧 円学は日正の名を与えられたのです。
この日正が当山の第三世となり、以来、灯を伝えて現在45世、約700余年を数えています。
 現在の海上山 妙福寺の姿が完成したのは、第25世紫雲院日逢上人から第27世 開示院日邵上人の間、 約33年の歳月を費やしたものです。そして中御門帝の時以来、勅願の寺跡として表高十万石を与えられました。
正面にある枡形の石垣表門は、その寺格を表したものです。
 また、山主晋山に際し、宮中より緋紋白五條、紫衣、女帝用乗輿等のご下賜を常とし、各堂宇に十六菊定紋、 葵御紋の使用が赦されるなど、皇室、幕府との結びつきが深められてきました。
そのため、当時銚子には高崎藩の別封地があった関係で、山内には高崎藩士が常時十数名も詰めて警護に当たるなど、 内外ともに一大法城の面目を備え、遠近から老若男女が集まり、隆盛をきわめました。
また歴代の先聖は、大方化主、能化の師が多く、教化はますます拡大し、北総唯一の宗門弘通の道場として 広く世に知られるようになりました。

 海上山 妙福寺は正和3年(1314年)4月26日、人皇95代 花園天皇の時代に、 日蓮聖人の直弟子 中老僧日高聖人を開基とし、大本山中山法華経寺三世 浄行院日祐聖人によって開創された名刹です。当時は銚子市の隣り、匝瑳市八日市場の入山崎にあり、「槃若寺」と称し、真言宗に属していましたが、 時の住僧 円学は日祐聖人の偉大さにふれ、ついに心服し、寺も僧もその宗旨を改めました。寺号を海上山 妙福寺とし、住僧 円学は日正の名を与えられたのです。この日正が当山の第三世となり、以来、灯を伝えて現在45世、約700余年を数えています。
 現在の海上山 妙福寺の姿が完成したのは、第25世紫雲院日逢上人から第27世 開示院日邵上人の間、 約33年の歳月を費やしたものです。そして中御門帝の時以来、勅願の寺跡として表高十万石を与えられました。正面にある枡形の石垣表門は、その寺格を表したものです。
 また、山主晋山に際し、宮中より緋紋白五條、紫衣、女帝用乗輿等のご下賜を常とし、各堂宇に十六菊定紋、 葵御紋の使用が赦されるなど、皇室、幕府との結びつきが深められてきました。そのため、当時銚子には高崎藩の別封地があった関係で、山内には高崎藩士が常時十数名も詰めて警護に当たるなど、 内外ともに一大法城の面目を備え、遠近から老若男女が集まり、隆盛をきわめました。
 また歴代の先聖は、大方化主、能化の師が多く、教化はますます拡大し、北総唯一の宗門弘通の道場として 広く世に知られるようになりました。

東海鎮護の神 開運北辰妙見大菩薩

東海鎮護の神
開運北辰妙見大菩薩

本殿奥には、聖徳太子が物部もののべ氏討伐の際、戦勝を祈念し、自らの童子姿を御親刻された、本朝北辰像造立の濫觴らんしょう(初めての作)と伝えられる北辰妙見大菩薩御尊像が奉祀されています。
尚この御尊像は、代々源家に伝えられ、右大将源頼朝を経て豊臣秀吉に伝承され、加藤清正渡韓の際授けられ、帰国後ふたたび大阪城にと祀られましたが、大坂の陣始まる寸前、清正これを奉遷して、江戸城中に祀られておりました。
その後多古城主、松平家に伝わり、享保元年(一七一六年)、東海鎮護の妙見様として当地に奉祀されました。
爾来、開運吉祥、海上安全、除災得幸、学徳増進、進学(学業)成就などの所願を叶える神様として「銚子の妙見様」の呼称は全国津々浦々に鳴りひびきわたっています。
去る平成三十年(二〇一八年)、三百年の時を超え、老朽化甚だしき妙見宮(北辰殿)は、協賛篤志の丹誠により、日蓮大聖人御降誕八百年慶讃事業として全面再建されました。

 本殿奥には、聖徳太子が物部もののべ氏討伐の際、戦勝を祈念し、自らの童子姿を御親刻された、本朝北辰像造立の濫觴らんしょう(初めての作)と伝えられる北辰妙見大菩薩御尊像が奉祀されています。尚この御尊像は、代々源家に伝えられ、右大将源頼朝を経て豊臣秀吉に伝承され、加藤清正渡韓の際授けられ、帰国後ふたたび大阪城にと祀られましたが、大坂の陣始まる寸前、清正これを奉遷して、江戸城中に祀られておりました。
その後多古城主、松平家に伝わり、享保元年(一七一六年)、東海鎮護の妙見様として当地に奉祀されました。爾来、開運吉祥、海上安全、除災得幸、学徳増進、進学(学業)成就などの所願を叶える神様として「銚子の妙見様」の呼称は全国津々浦々に鳴りひびきわたっています。
 去る平成三十年(二〇一八年)、三百年の時を超え、老朽化甚だしき妙見宮(北辰殿)は、協賛篤志の丹誠により、日蓮大聖人御降誕八百年慶讃事業として全面再建されました。

学校法人妙福寺学園 認定こども園 銚子幼稚園

学校法人妙福寺学園
認定こども園 銚子幼稚園

 42世日静上人により昭和28年に創立されました銚子幼稚園は「人間形成の基本は幼児期における薫陶にあり」との理念から、仏教に於ける宗教的情操教育「心の教育」を推進し、平成20年より学校法人妙福寺学園としてさらにその教育理念の発展拡充に努め、更に令和2年3月31日をもって銚子初の認定こども園に認可されました。
(お子様のお預かり時間7:00~19:00まで)

 42世日静上人により昭和28年に創立されました銚子幼稚園は「人間形成の基本は幼児期における薫陶にあり」との理念から、仏教に於ける宗教的情操教育「心の教育」を推進し、平成20年より学校法人妙福寺学園としてさらにその教育理念の発展拡充に努め、更に令和2年3月31日をもって銚子初の認定こども園に認可されました。
(お子様のお預かり時間7:00~19:00まで)

火状のお稲荷様 正一位妙福稲荷大名神

火状のお稲荷様
正一位妙福稲荷大名神

 院宣により正一位を賜った御尊体は、 火状のお稲荷さまとして内外に知られています。
明治三十年三月三十日、客殿から出火した際、隣接する祖師堂がお稲荷様のご出現で類焼の災厄からまぬがれた話は有名です。
また昭和二十年の大空襲の時には、当山境域と周辺町内だけが災厄からまぬかれ、 その霊験のあらたかさを示しました。

 院宣により正一位を賜った御尊体は、 火状のお稲荷さまとして内外に知られています。明治三十年三月三十日、客殿から出火した際、隣接する祖師堂がお稲荷様のご出現で類焼の災厄からまぬがれた話は有名です。また昭和二十年の大空襲の時には、当山境域と周辺町内だけが災厄からまぬかれ、 その霊験のあらたかさを示しました。

北総唯一の宗門に ふさわしい境内の諸堂

北総唯一の宗門に
ふさわしい境内の諸堂

大本堂

護法大龍神堂

 宝暦年間(1761年)に造立された総欅造りの入母屋銅瓦棒葺の「本堂」をはじめ、一本の釘も使わず組込式の総欅権現造りの「妙見宮本殿」および拝殿の「妙見宮」、さらに法華経信者を擁護する善神 七面大明神を祀る 「七面堂」。他に「浄行堂」「帝釈堂」「寶積稲荷堂」。
技芸上達・商売繁昌の願いをかなえてくれる「妙音弁財天」、妙見宮の二百貫神興が納められている 「宝聚殿」「平川龍神堂」、水子を供養する「慈母観音水子供養塔」、また昭和60年に完成をみた、当山開創以来この地を守ってこられた、大変な神通力をお持ちの大龍神をお祭りする 「護法大龍神堂(六角御堂)」、平成18年10月には、自己鍛錬・水行道場としてとして「龍神御瀧」の大改修が円成しました。

 宝暦年間(1761年)に造立された総欅造りの入母屋銅瓦棒葺の「本堂」をはじめ、一本の釘も使わず組込式の総欅権現造りの「妙見宮本殿」および拝殿の「妙見宮」、さらに法華経信者を擁護する善神 七面大明神を祀る 「七面堂」。他に「浄行堂」「帝釈堂」「寶積稲荷堂」。技芸上達・商売繁昌の願いをかなえてくれる「妙音弁財天」、妙見宮の二百貫神興が納められている 「宝聚殿」「平川龍神堂」、水子を供養する「慈母観音水子供養塔」、また昭和60年に完成をみた、当山開創以来この地を守ってこられた、大変な神通力をお持ちの大龍神をお祭りする 「護法大龍神堂(六角御堂)」、平成18年10月には、自己鍛錬・水行道場としてとして「龍神御瀧」の大改修が円成しました。