人生という山登りは、その繰り返しの
連続だナァ〜・・・。
一つの山を登れば
彼方にまた大きな山が控えている
それをまた登ろうとする
力つきるまで・・・
正念場という言葉は、歌舞伎の世界からできたそうだ。ここぞという大切な場面を意味する。
振り返ってみると・・・平成16年 第3期園舎新築、平成18年 第4期園舎新築、平成20年 学校法人化認可、そして本年7月、また一つ山登りが始まった・・・築40年以上になる講堂は既に老朽化、園児達の安全性・便宜性と共に、建築基準に鑑みて公益法人の責務として有事に備えての避難場所として、その耐震性をも充分に考慮したものを、と考えている。
一瞬一瞬を正念場とする覚悟と気概を持って前へと進みたい。園児達は必ず、その後ろ姿を観て成長していってくれることを信じている。《君らしく》・・・卒園していく園児達へ、毎年銚子幼稚園が送り続けてきたメッセージである。
根を大切にすれば
木は育つ
そして芽をふき、伸び花ひらく
見られなくても
ふみつけられても
お日様があたらなくても
耐えられる根っこ
努力はだれでもするヨ
その努力の上に『ガマン』するという
辛抱を立ててごらん
その棒の上には 必ず花が咲くよ・・・
《君らしい》花が!
ナンバーワンよりもオンリーワン、その為には根に対する感謝と報恩の自覚が不可欠である。連綿として続く命の根の連鎖・・・私達は簡単に先祖という言葉を口にするが、その数たるや想像をはるかに絶する。
命の根は祖父母の代、つまり2代前で4人、5代前で32人、10代前で1,024人、それが20代前にさかのぼると1,048,576人、30代前になると1,073,741,824人・・・何と10億を超えるんです!その内のたった一人でも命の根の連鎖からはずれたら、今 ここに自分自身と呼べる命は存在しない。知ると知らないとにかかわらず、気の遠くなる様な命の根を積み重ね、私達はその重みを背負って今 ここを生きているということ。
日本人は古来、年に一度先祖が黄泉の国から私達のもとへ帰って来る、その美意識が迎え火・送り火という哀愁を帯びた盆行事をうみ、同事に「家」という観念から人としての絆をも育ててきたのではなかろうか。
仏教は過去に〈葬式仏教〉と揶揄され、あざけり笑われた時代があった・・・現代の世相は、その〈葬式〉すらもが、家族葬・自由葬・直葬という美辞麗句のもと軽視されつつある。故人の・・・先祖の言うに言えず、語るに語っていけなかった無言の遺言を聞き取っていく場、その感性の復活を是非とも期したい。その為にもお互いに立志照隅(志を立てて、今日・只今、自分が置かれている立場・身の上を素直な気持で照らし出してみる。換言すれば一人一人が、その場に在る分をわきまえ尽す)の心棒を再建して、お盆を迎えたい・・・多くの命の根に対する報恩の為にも。
報恩とは、「一源三流」の実践に他ならない。
一源とは誠実・感謝を源として
一、汗を流す(勤勉)
二、涙を流す(忍耐)
三、血を流す(命を込める)
八月十六日には、心に送り火をたいて、多くの先祖の御霊への「おもてなし」を心掛けられ、盆施餓鬼法要(午後1時より)に参拝されたし。
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